責任転嫁という意味。

 最近お気に入りの作家を挙げろと言われれば、5本の指に入るだろう勢いで【森見登美彦】さんが好きである。
 一言で言うならばこの方は「含羞」の作家であろうと思う。たぐいまれなる妄想力と我が道をゆく文体で綴られた作品群へは、ただただ愛おしい。この方の作品によって京都大学と理系への憧れが一層かきたてられた。本当にもうどこまでも駄目な大学生活すぎて、ひたすらに憧れる。この方(とD氏)がいたから「はてな」を選んだほどだ。ファン心理とはそういうものである。
 同時に、非常に個人的ながらとても嬉しかったことがある。彼独特の言葉の紡ぎ方・表現スタイルによって、私自身の口語が市民権を得たように感じられたのだ。
 私の選ぶ言葉はどちらかというと堅苦しいらしく、「生きる平安時代」「黒蟻の行進」「緑の血が流れている」など……最後は私の性格の問題か。とにかく、今まで
 「そんな言葉使わないよ!」
 という、言われなき主張と戦ってきた。

ツッコミ対象となった一例)
「憤懣やるかたない」 ←現役国語教員よりツッコミ
怒髪天をつく」 ←高校生よりツッコミ
「断腸の思い」 ←どこかの誰かよりツッコミ
「…慄然!」 ←友人某M嬢よりツッコミ
「慙愧の念に耐えない」 ←D氏よりツッコミ

 …等々、他限りなく。
 しかし、森見先生のボキャブラリの豊かさは私の百万歩先を進んでいる(個人的に本当に見習いたいという危険思想がある)。「そんな言葉使わないよ!」に対して「ふふふ、森見登美彦を読んでいないな!」と言い返すことができるようになったわけである。別に責任転嫁というわけではない。
 
 長くなったが(実はここまでが前置きだ)。

 昨日ニューヨークの地下鉄で森見登美彦『恋文の技術』を読んでいたのは私です。

 ニューヨークがいかに広いといえども、多分あの時森見先生の著作に涙ほろりとしかけたのは私ひとりだったのではないだろうか。
 森見スキーとして、その予感に途中で気づき思わず打ち震えた。シンガポール村上春樹を読むくらいはいる。実際、私がそうだった。しかし、ニューヨークのあの地下鉄で『恋文の技術』。よく考えると、ドリアンとビール級(合わせて食べると死ぬという噂)に最高に合わず、私を大喜びさせた。

 さて、そんなことを妄想していたから、グランドセントラル駅からメトロノースに乗るために本を片手に30分迷子になったのだろうか。

(※Grand Central Stationにて撮影。完全に現在地を見失っていた頃。)
 ああ、疑問は尽きない。